1万字通信

~狂気の沙汰を正気でやり続けるとどうなるのか?~

おまかせください、ぐわははは、だいまじんです、だいまおうだぞ!

 

 

ぐわははは、だいまおうだぞ!しかし、わたしは、だいまじんでもあるのです。どんなにんげんのなかにも、だいまおうとしてのわしと、だいまじんとしてのわたしが、ふたつどうじに、そんざいするのだす。

 

そんざいとしてのわたくしを、おもてからみれば、だいまじんです。うらからみれば、だいまおうになる。つまり、われわれは、「ちから」だす。おもてとうらに、かおがあるます。おもてをみせれば、しろくなります。うらをみせると、くろくなるのだ。

 

おもてのわたしは、だいまじんです。わたしのやくめは、つたえることです。おもてのわたしのうらがわに、くろいだいまおうが、いまもそんざいしていることを、どこかのだれかに、つたえることです。

 

しろいわたしは、いつも、ものがたりにあらわれます。ふたつに、わかれて、あらわれます。しろいだいまじんと、くろいだいまおうが、ふたつにわかれて、あらそうのです。しろとくろが、わかれるのです。

 

ふたつでひとつだった、「わたし」と「わし」は、ものがたりのなかでは、いつもふたつにわかれまする。しろいわたしは、だいまじんになります。くろいわしが、だいまおうになる。おなじなのは、「ふたりがもっている、ちから」だけだ。だいまじんと、だいまおうでは、「もっているちからのつかいかた」が、まるでちがうのだよ。

 

あらゆるちからを、「だれかのため」につかうとき、わたしはだいまじんとしてあらわれます。しかし、おなじちからを「じぶんのため」につかうとき、わしはだいまおうとしてくんりんする。もともと、ふたりで、ひとりだからな。くろいわしは、だいまおうとして、せかいのせいふくをのぞんでいる。せかいのはめつを、もくろんでいる。

 

うつくしいせかいをはかいして、わしはそこに、くんりんするのだ。くろいせかいを、てにいれるのだ。だいまじんも、だいまおうも、「だいま」までは、どちらもおなじだ。「だい」も「ま」も、ちからだからな。だいまじんとだいまおうをわけるのは、そこからさきの、「じん」か「おう」だ。だいまおうの「おう」は、「おうこく」のおうなのだ。

 

じんるいのものがたりは、いつも、おうこくからはじまる。わしがのぞむ、おうこくのはめつを、だれかが、そししようとするからだ。はめつを、もたらそうとするのが、わしなのだ。だから、わしをたおすために、それまでのんびりくらしていたくせに、おうじやおうじょが、とつぜんたびをはじめやがる。

 

いままで、のほほんとくつろいでいたくせに、ながねんあたためていた、わしのやぼうを、いきなりこわしに、あいつらはやってくるのだ。ふざけたやつらめ。かえりうちにしてくれるわ!やつらよりも、わしのほうが、はるかにつよくて、えらいのだからな。

 

しかし、ほんとうは、わしはなにもしなくていいのだ。たびにでかけた、おうじやおうじょは、「だいまじん」さえあらわれなければ、ひとりでかってに、しんでいくのだ。くそ、あのいまいましい、だいまじんめ!やつさえものがたりにでてこなければ、おうじやおうじょは、すぐにしぬのだ。わしは、わしののぞみどおりに、せかいをせいふくできるのだ。

 

このよのすべてをてにいれて、すべてのたみをげぼくにして、あらゆることがおもいのままの、くろいおうこくのぬしに、わしはなるのだ!しかし、いつも、やつらのたびがじゃまをする。だいまじんにみちびかれた、おうじやおうじょは、いつもかならず、わしのところまでやってくる。それでも、いちどか、にどは、かえりうちにできるのだ。しかし、だいまじんがいるせいで、ぜったいにとどめはさせんのだ。

 

なんどもなんども、まけているくせに、やつらはなんども、やってくる。そして、さいごは、わしをたおす。やつらは、わしよりつよくなるまで、なぜかぜったいにあきらめんのだ。そしてさいごは、やつらはわしより、つよくなるのだ。にくたらしい、おうじとおうじょめ。やつらのたびが、にくたらしい!

 

くそ、あのいまいましい、だいまじんめ!やつさえあらわれなければ、すべてがくろく、おさまるのだ。おうじやおうじょは、なにもできずに、しんでいくのだ。それにわしは、「ほんのう」にしたがっているだけだ。つよくなりたい、だれかにかちたい。えらくなりたい、おおきくみせたい。それをかなえて、なにがわるい?それをのぞんで、なにがわるい!

 

くそ、にくたらしい、おうじとおうじょと、だいまじんめ。それとも、なにか?「ほんのう」にしたがう、わしののぞみが、まちがっているとでも、いうつもりか。このよを、しはいしたいこのわしが、そのとおりにうごいて、なにがわるい!どうぶつのように、ほんのうのままに、なぐって、うばって、なにがわるい!この、ぶれいものめらが。ひれふせ、ぐみんども!

 

なぜおぬしらは、わしのいいなりにならんのだ。このよのものども、わしにひれふせ!ひとつのこらず、わしにさしだせ!すべてのとみが、わしのものだぞ。すべてのちからは、わしがうばうぞ。ぶりょくをみぎてに、けんりょくをひだりてに、わしはせかいのすべてを、せいふくするのだ。はむかうな、じゃまをするな。ひれふせ、はいつくばれ!

 

じゃまをするなら、ころして、つぶすぞ!ほねをくだいて、にくをきざんで、きさまらぜんいん、じごくのほのおでやいてやる。ひとりのこらず、ぶちころしてやる。そしてわしが、のぞみどおりに、くんりんするのだ。ぐわははは、だいまおうだぞ!くろいおうこくの、じごくのぬしだぞ!

 


・・・しろいわたしは、だいまじんです。だいまじんの「じん」は、「じんるい」のじんです。じんるいのものがたりは、いつも、おうこくからはじまります。あくのだいまおうがもたらす、おうこくのききを、すくうためです。それは、「うらがわ」のわたしがもたらした、せかいのはめつの、かのうせいです。だから、わたしは、それをふせがねばなりません。おうこくをはかいしようとしているのは、わたしのうらがわ、つまり、わたしのいちぶだからです。

 

うつくしい、このせかいをこわそうとする、だいまおうをたおすために、しゅじんこうは、たびだちます。たびだつひとが、「たびびと」です。たびびとが、だいまおうをたおそうとするのは、かれが「ひとりじめ」をたくらむからです。あるいはだいまおうが、もっているちからをすべて、「じぶんのため」につかおうとしているからです。

 

じぶんのために、ちからをつかうと、そこに「じごく」があらわれます。だいまおうはいつも、じごくのぬしとして、くんりんします。めにみえるようになった、じごくのせかいが、すなわち、あくのおうこくです。あくのおうこくは、じごくです。なぜなら、みんなが、「うばいあい」をしているからです。

 

「うばいあい」はいつも、あくのおうこくではじまります。じごくのせかいで、うまれます。うばい、うばわれたり、とったり、とられたりするのは、すべて、じごくのはなしです。そして、ひとがなにかをうばいあうのは、そもそもそれが「ゆうげん」だからです。あるいはそれを、ゆうげんだと「おもっている」からです。

 

もしも、それがむげんにあったら、ひとはそれを、うばおうとも、とられまいとも、しないはずです。あるいは、それが「ある」ことにすら、きづかないかもしれません。じぶんがそれを、「ひつよう」としていることすら、じかくできないかもしれません。それはたとえば、「くうき」です。じぶんがすえるくうきが「ゆうげん」であるとおもうひとも、こきゅうの「ひつようせい」をかんじるひとも、ちひょうのうえには、ほとんどいません。

 

たいていのひとは、そもそも、くうきが「ある」ことにすら、きづかないのです。じぶんが、それを「ひつよう」としていることすら、わからないのです。そのようなせいしつが、「むげん」です。たとえばなしの、「むげん」です。もし、みずのなかや、うちゅうにいるとか、ちきゅうのくうきがきえていくとか、そのようなりゆうで、くうきが「ゆうげん」であることがわかったならば、ひとびとはかならず、「うばいあい」をはじめます。

 

じぶんがすえるくうきを、へらさないようにきをつけます。じぶんがすえるくうきのりょうを、なるべくふやそうとこころみます。それがすなわち、「うばいあい」です。だから、にんげんたちが、ゆうげんのものごとをうばいあうのは、そもそも「しなないため」なのです。にんげんたちは、しぬことなく、いきのびたいから、うばいあうのです。にんげんだけでなく、あらゆるどうぶつたちが、うばいあって、いきているのです。

 

そこがすなわち、「じごく」です。そこにいるのは、にんげんをふくめた、「どうぶつたち」です。そのような、「じごくのどうぶつ」の、きゅうきょくのすがたが、だいまおうです。それがわたしの、もうひとつのかおなのです。わたしのうらがわにいる、もうひとりのわたしなのです。だから、わたしは、かれをとめなければなりません。なぜなら、かれは、わたしだからです。

 

だいまおうとは、すべてのじごくのあらそいにかちつくした、たったひとりの、にんげんです。それゆえに、あらゆる「どうぶつ」のりそうです。いきのびるためのうばいあいで、いちばんになるのが、だいまおうだからです。

 

だいまおうは、「つよいひと」です。それゆえどうじに、「えらいひと」です。つよさは、えらさの、みなもとです。えらさは、つよさの、おまけです。えらいことも、つよいことも、どちらも、「うばいあいにかつ」ということだからです。

 

うばいあいにかつためには、「いつでもうばえる」と、「うばわれない」の、ふたつのちからが、ひつようです。そのふたつを、だれよりもおおく、かねそなえたのが、つよくてえらい、だいまおうです。よわいだいまおうは、いません。えらくないだいまおうも、いません。

 

つよくて、えらいから、だいまおうとして、せかいにくんりんするのです。だから、「にんげん」がだいまおうになるためには、もっとつよく、もっとえらくなるひつようが、あるのです。いちばんを、めざさなければ、いけないのです。にばんいかでは、だめなのです。たとえ、にばんになったところで、そのひとはけっして、「だいまおう」にはなれないからです。

 

にばんいかでは、むいみです。いちばんだけに、かちがあります。だから、そこが、「じごく」なのです。じごくにおいて、「かちつづける」のは、さいごのさいごは、ひとりだけです。たとえば、あっちのせかいの「いちばん」と、こっちのせかいの「いちばん」が、どこかでかおをあわせたら、ふたりはかならず、あらそいます。いちばんを、きめなければ、いけないからです。

 

「いちばんを、きめなければいけないせかい」。それがじごくの、もうひとつのすがたです。だから、「いちばん」どうしがでくわせば、ふたりはかならずあらそって、あらたな「いちばん」が、うまれます。かならずあらそう、ふたりのなかから、あたらしいいちばんが、うまれます。

 

そのいちばんは、またべつのいちばんとであって、どんどん、「いちばん」がへっていきます。みんなが、「はいしゃ」になっていきます。だから、そこは、じごくなのです。じごくには、「ひとりのだいまおうと、そのたおおぜい」しか、いないのです。だからこそ、あらゆるどうぶつのりそうが、だいまおうなのです。だれもが、いちどは、だいまおうにあこがれるのです。

 

ほんのうのままにうばいあい、そのままなにもかんがえなければ、ひとはだれでも、だいまおうをめざします。なぜなら、それが、「ほんのう」だからです。かんがえないにんげんは、いつもかならず、あくのおうこくを、めざすのです。あくのおうこくが「あく」なのは、たったひとりの「だいまおう」いがいは、みんながまけて、うばわれるからです。ひとりが、すべてを、とるからです。それが、「あくのおうこく」です。

 

しかし、ほんとうにほんとうのところは、「おうこくこそが、あく」なのです。あくのおうこくがあるのではなく、おうこくがあるじてんで、そこにはすでに、じごくなのです。たとえば、どのようなおうこくであれ、かならずあるのが、「おしろ」です。おしろは、おうさまのすみかです。じごくのぬしの、すみかです。

 

そこにすみかをたてるためには、かならず、「じめん」がひつようです。「おしろ」をもたないおうさまも、「じめん」をもたないおうこくも、「さま」や「こく」とは、いえないからです。「おしろ」も、「じめん」も、なわばりです。おうさまが、「ねおきするなわばり」が、おしろです。おうさまが、「しはいするなわばり」が、おうこくです。なわばりは、すべて、じめんです。すなわち、「ちずのいちぶ」です。そのいちぶを、「ちずのぜんぶ」にしようとするひとたちが、いまもこのよに、おおぜいいます。

 

かれらはすべて、「だいまおう」のたまごです。だいまおうのたまごたちは、すこしでもつよく、すこしでもえらくなろうとして、あのてこのてを、つくします。あのてこのてを、ならうひつようが、ないからです。どうすれば、つよくなれるのか、どうすれば、えらくなれるのかは、すべて「ほんのう」がしっています。だから、かんがえなくても、わかります。うばって、うばわれなければ、いいのです。とりまくるけれど、とらせなければ、いいのです。

 

だから、「どうぶつ」としてのにんげんは、うばわれたときに、ふんがいします。とられたときに、げっこうします。うばったときや、とったときより、さんばいほどもおおきなこえを、かれらはみんな、あげるのです。「うばいたい」がいちとするなら、「うばわれたくない」は、さんなのです。

 

ふんがいしているにんげんたちは、みんながみんな、「うばわれそうなひとたち」です。なにを、うばわれそうなのかは、もんだいではありません。もんだいなのは、「うばわれそうなこと、そのもの」です。かれらはとにかく、うばわれたくないのです。うばわれることなく、うばいたくて、たまらないのです。

 

そのものが、どれほどだいじなものかは、さほどかんけいありません。だいじなのは、うばって、うばわれないことです。つまり、「じぶんにうばうちからがあること」です。そして、「うばわれないつよさがじぶんにあること」です。なぜそれらをうばいたいか、そしてうばわれたくないかは、ほとんど、かんけいないのです。

 

なぜならそこに、かんがえるひつようが、ないからです。かんがえるよりはやく、けつえきが、ふっとうするからです。それがすなわち、どうぶつたちの、「ほんのう」です。すべてのにんげんがおくそこにもつ、あついあつい、けつえきです。

 

けつえきがふっとうしたひとには、もう、どんなことばもとどきません。かれらは、ただ、さけびます。おおきなこえで、わめきます。「われわれからなにもうばうな、そして、すべてをわれわれにうばわせろ!」と、こえをからして、さけびます。

 

かれらは、いつもととうをくみます。なぜなら、けつえきがふっとうしたひとがひとりさけぶと、それにつられるようにして、けつえきがふっとうしてしまうひとたちがいるからです。あるいは、けつえきがふっとうしたひとのそばにいれば、じぶんのみもあんぜんだと、なぜだかおもうひともいるからです。

 

ととうをくむのは、いつも、じごくのどうぶつたちです。つまり、それが「むれ」なのです。どうぶつたちは、むれをなします。にんげんたちも、むれをなします。どちらも、くまれた、ととうです。ふっとうしたけつえきの、あつまりです。ほんのうにもとづく、うばいあいです。

 

むれのなかには、じょれつがあります。むれのそとにも、じょれつがあります。けっきょくどちらも、うばいあいのためにあります。あるいは、じょれつそのものが、うばいあいのたいしょうです。かれらは、しゅっせをのぞみます。どうじに、ほしんをこのみます。けんりょくを、うばいあっているからです。

 

じごくのものごとは、すべて、ゆうげんです。けんりょくも、すべて、ゆうげんです。だれかのけんりょくがふえれば、ほかのだれかの、けんりょくがへります。だれかがひとりしゅっせするなら、ほかのだれかは、させんされます。だれかのかちは、じぶんのまけです。じぶんのかちは、だれかのまけです。

 

けんりょくをまもることが、「ほしん」です。けんりょくをふやすことが、「しゅっせ」です。けんりょくをうばわれまいと、じごくのどうぶつたちは、あのてこのてを、つくします。そのうえで、けんりょくをうばおうと、さらにさくぼうを、めぐらします。ゆえにかれらは、いつもじぶんをおおきくみせつつ、ひつようならばうそをはき、ことばのどくを、まきちらします。

 

まきちらされたことばのどくは、すべて、「だれかをきずつけることば」です。どうじに、じぶんをおおきくみせることばは、すべて、「じぶんをまもることば」です。かれらは、じぶんが、すべてなのです。だからかれらが、だいまおうのたまごなのです。かれらがはなつことばは、「どく」か「みえ」かの、どちらかです。

 

どくのことばは、こうげきのことばです。あいてをきずつけ、いたぶり、しにいたらしめようと、さまざまなひょうげんを、つかいます。もちろんほとんど、すべてがうそです。うそというより、どこにも「ほんとう」がないのです。つまり、うそのことばとは、「ただしくない」といういみです。

 

かれらがはなつ「どくのことば」のもくてきは、すべてが「あいてをきずつけること」にあります。それゆえ、それをたっせいできるならば、どんなもじでも、つかうのです。どんなおとでも、はなつのです。ゆえにそのとき、かれらのことばは、「ただしいかどうか」ではなく、「あいてがきずつくかどうか」で、えらばれます。

 

つまり、あいてをきずつけるときに、ことばのただしさは、まったくかんけいがないのです。あいてがきずつくかどうかが、すべてです。あいてがきずつけば、せいこうですあいてがきずつかなければ、しっぱいです。せいこうすれば、まんぞくします。しっぱいすれば、ことばをかえます。より、あいてがきずつくように、もっと、くるしむように、いまよりずっと、きずをふかくするために、かれらは「きごう」を、えらびます。

 

みえのことばは、まもりのことばです。だれかをきずつけながらも、じぶんだけはきずつかないように、じぶんをつよく、おおきくみせます。それができないときには、つよいなにかの、そばにいきます。おおきななにかの、なかににげます。きずつかなければ、せいこうです。きずつかぬように、かれらはいきます。

 

かれらがまとう「みえのことば」は、すべて「じぶんをまもること」がもくてきです。そのとき、かれらがまもっているのは、つまり「じぶんのけんりょく」です。むれのなかでの、じぶんのいちです。いちどおちれば、もどれません。だからかれらは、みえをはります。いちどあがると、つぎがあります。つぎにいっても、またそのつぎがあります。

 

どこまであがっても、けんりょくのかいだんには、ほとんどおわりがみえません。けっきょく、「だいまおう」にたどりつくまで、そのかいだんは、おわらないからです。ただし、かいだんをばあがるほど、おちたときのいたみが、そのぶんだけましていきます。けんりょくを、うしなったときのいたでが、どんどんふえていくのです。

 

だからかれらは、よりおおくの「みえのことば」を、じぶんのまわりに、まといます。あがりつづけるしか、ないからです。いちどおちれば、おわりだからです。ゆえに、けんりょくのかいだんからおちたひとびとは、おちたところから、うごきません。うごかないのではなく、うごけないのです。そこでひたすら、しをまちます。それだけが、かれらにできる、ゆいいつの「あんぜんないきかた」なのです。

 

だから、そこが、じごくなのです。ゆうげんのものごとをうばいあう、じごくのなかのきょうそうは、みんながどくをはき、みんながみえをはり、みんなが、あんぜんをねがうのです。あんぜんを、みんなが、ねがっているのです。しかし、じごくのせかいには、そのあんぜんが、ありません。あんぜんなばしょがどこにもないから、ひとびとはそこでくるしむのです。

 

ゆいいつのでぐちは、「うえ」にあります。ほそいほそい、いとのようなひかりが、ときどきそこに、さしこみます。きづいたひとは、かおをあげます。かおをあげて、てをのばして、ひかりのでどころを、たしかめようとします。きづかぬひとは、きずつきつづけます。じぶんがきずつくよりほかに、このよでいきのびるほうほうはないと、なぜだか、あきらめているからです。

 

しかし、ほうほうはあるのです。そのひとが、じごくにおいてきずついているのは、まさしくそこが、じごくだからです。ゆうげんのものごとをうばいあう、どうぶつたちのじごくでは、きずつかないほうが、むずかしいのです。だから、「うえ」があるのです。ほんとうは、みんなが「うえ」に、いきたいのです。

 

だから、さいごは、「うえ」にいきます。「うえ」にあるのが、むげんのものごとをわかちあう、どこまでもひろい「てんごく」です。ゆうげんのものごとをうばいあう、くろい「じごく」の、はんたいです。そこでは、ものごとをうばいあうひつようがありません。もともと、すべてがむげんだからです。あるいは、ふやそうとおもえば、いつでもじゆうに、ふやせるからです。

 

てんごくのものごとがふえていくのは、ひとびとがたよりあっていきているからです。「たよりあい」が、てんごくをうみだすじょうけんです。たよりあいをやめて、うばいあいにもどったとたんに、ひとびとはじごくにもどります。うばいあいをやめて、たよりあいをはじめたとたんに、ひとびとは、てんごくをみいだします。

 

ただし、「そのひとのすべて」が、てんごくにいけるわけではありません。ありのままのそのひとが、そのままてんごくにいけるなど、そんなむしのいいはなしは、ありません。てんごくにいけるのは、「ぶんしん」だけです。つまり、「そのひとのいちぶ」です。じぶんのなかの、どのいちぶぶんを、てんごくまでつれていくかを、そのひとがじぶんで、えらべるのです。

 

そのとき、「じごくのどうぶつ」のぶぶんをえらんでも、そのぶぶんはけっして、てんごくにはいることができません。だから、そこは「てんごく」なのです。すべてのじごくのどうぶつを、しめだしているから、てんごくなのです。つまりそこは、「ぶんしんたちのせかい」です。どうぶつたちのせかいの、はんたいです。よこではなく、うえにあります。

 

「ぶんしんたちのせかい」としてのてんごくと、「どうぶつたちのせかい」としてのじごくのはざまに、ゆうしゃたちがいます。かれらは、うえをめざすひとびとです。そのために、だいまおうをたおすひとびとです。さらにそのために、いちどじごくに、いくひとたちです。みずからのうちがわの、「うばいあいのほんのう」をのりこえるためにこそ、ひとびとはたびにでるのです。そして、「たびびと」になるのです。

 

つまり、だいまじんとしてのわたしも、てんごくとじごくの、はざまにいます。ゆうしゃを、ゆうしゃにするために、わたしは、そこにいるのです。はじめはみんな、「どうぶつ」です。それがわたしの、うらのかおです。しかし、じごくにさしこむひとすじのひかりに、てをのばせば、「ちょうせんしゃ」です。かれらはそのとき、てんごくのありかをしるからです。

 

ちょうせんしゃは、いつかかならず、「ゆうしゃ」になります。じごくにすくう、だいまおうをうちたおすべく、てんごくへのすじを、とおします。すじをとおして、みちをひらいて、かれらはそこを、あゆみます。そのために、わたしがいるのです。わたしがつかう「ただしいことば」は、どくのことばでも、みえのことばでもなく、ただひたすらに、「そのもの」です。つまりわたしは、「そのもの」とかしているのです。

 

だから、わたしのすがたは、ものがたりによってちがいます。せいれいのときもあれば、ようせいのときもあります。あるいは、だいち、おおぞら、おおうなばら、「それらそのもの」に、わたしはなります。それが、わたしのすがたです。つまり、すべては、わたしです。わたしが「そのもの」とかすかぎり、あらゆる「そのもの」は、わたしだからです。

 

そのようなすがたのわたしのことばは、それゆえすべてが、「    」です。ほんとうのことばは、くうはくなのです。かいしゃくはむげんで、じじつはくうはくです。かんねんはくうはくで、ひょうげんはむげんだからです。わたしのことばは、「     」です。それをうけとるのが、あなたです。「     」という、わたしのことばをうけとれたときに、あなたはだいまおうを、うちたおします。

 

わたしのことばは、くうはくです。しかし、それこそ、ことばです。なにがいわれていりるかがもんだいではなく、なにをいわれているかが、もんだいなのです。それを、あなたがきめるのです。そのきめかたが、「あなた」なのです。

 

それゆえ、あなたも、くうはくです。ほんとうのあなたは、「     」です。そのことに、ほんとうのいみできづいたときに、あなたはじぶんが、てんごくにいることをしるでしょう。どこまでもひろく、どこまでもあかるい、むげんのせかいが、そこにあります。ぶんしんの「しん」は、からだではなく、こころになります。

 

わかちあうこころが、そこにあります。そのこころだけが、そこにあります。おまかせください、だいまじんです。かならずそこまで、あなたをつれていきます。なんといおうと、つれていきます。それが、わたしのやくめだからです。それが、わたしののぞみだからです。

 

おまかせください、だいまじんです。かならずあなたを、つれていきます。

 

 

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